どうも丸田です。
この記事は、フェルマーの最終定理がどのように解決されたのか?中編を解説していきます。
ちなみに前編はこちらです。

簡単に要約すると、
1700〜1800年代。
時代を代表する天才たちはフェルマーの最終定理を具体的にアプローチしていきました。
しかし、結果的に素数という2000年以上の未解決問題が登場することとなり、「解けね〜〜!!」と解決には至らなかったのですね。
天才たちが繰り広げた知能戦からおよそ100年後に、ついにフェルマーの最終定理を解決する人物が現れる!という流れでした。
ということで、今回は
- 勇者の生い立ち
- 数学界を揺るがすスキャンダル
などをご紹介していきます。
数学界を揺るがすスキャンダル
絶対解けない説の浮上!
少しだけ、歴史の話をしますと。
これまで数々の数学者たちがフェルマーの最終定理に挑み続けていました。
ガブリエル・ラメはn=7の場合を証明したのですが、この時代から少しずつ「フェルマーの最終定理を人類に解くことはできないんじゃないか?」と言われるようになっていました。
1847年頃、ガブリエルラメがn=7の証明に取り組んでいる時、もう1人n=7を証明しようとしていた人物がいました。
それがオーギュスタン=ルイ・コーシーという数学者。(以降、コーシーと呼びます)
彼は現代数学の発展に貢献した偉大な数学者(でありながら、私生活はわりとポンコツ笑)なのですが、コーシーとラメは、「こっちが先に解くんじゃー!」「何をー!」みたいなノリで笑
どちらがn=7を先に証明するか競い合っていた、いわばライバルみたいな関係でした。
そんな小競り合いしている2人を、さらに高みの見物していた人物がいました。
それは数学者エルンスト・クンマー。(以降はクンマーと呼びます)
彼は確信していました。
「この2人は、同じ論理の罠に陥っている。このままじゃ解けないだろう」と。
そして、クンマーは「現在の数学技術では、フェルマーの最終定理を解決することはできないだろう」という旨をつづった論文を書いて発表。
これにより数学界は大混乱したのです。
「はぁ!?フェルマーの最終定理は解けないかもしれないだとぉ?」「え?んじゃ挑戦する意味ないじゃん!」みたいな感じで。
こうして数学者のフェルマー解決に対するモチベーションは下がっていったのでした。
フェルマーの最終定理、賞金首に。
しかし、しばらくして突然、数学界でのフェルマーのトレンドが高まります。
というのも、フェルマーの最終定理は解決したら賞金が得られるという、まさに賞金首に成り上がったからです。

現代なら確実にバズってるw
このトレンドの仕掛け人が、ドイツの資本家パウル・ヴォルフスケールでした。
彼は1908年に、「フェルマーの最終定理を解決した人間には10万マルク贈呈する」という約束を持ちかけたのです。
これによってプロの数学者だけではなくて、人生を一発逆転させたいアマチュア数学者までもがフェルマーの最終定理に取り組んでいくこととなったのです。
まさに大フェルマーの最終定理時代!!
でも、「なんでこのドイツ人の資本家パウル・ヴォルフスケールはそんな懸賞金をかけたのか?」不思議ですよね。
とても面白いエピソードがあるので紹介します。
パウルはもともと大学で数学を学んではいたのですが、ビジネスの家系商人の家系だったため、その商売を引き継ぎました。
ですので本業はビジネスマンとして活動して、その傍らで数学にも精通していました。
彼はビジネスも成功し、資産もあり、とても裕福な生活をしておりました。
何一つ不満も不自由もありませんでした。
ただ一つ、
「恋愛」をのぞいては!
恋愛においては、彼は不器用だったのです。
そして、1人の美しい女性への恋が彼の人生を狂わせました。。。
パウルはこの女性に対してもアプローチをしたそうなのですが、バッサリと振られてしまったというわけなんですね。
その経緯から、パウルは決意しました。
自ら生涯を閉じる決意するということに。(論理が飛躍しすぎ!笑)
とはいえ、ビジネス界で成功した彼、決して衝動的に動くタイプではありません。
自決する日時やタイミング、段取りなど綿密に計画を立て、ToDoリストを作成しました。
その当日、彼は準備したToDoリストを終えたのですが、仕事が早い彼は少し時間を持て余していたのです。
最後のひとときをゆっくり過ごそうと、書斎で数学の本をパラパラとめくり読みしていました。
その中の、とある1つの論文がパウルの目に入ります。
それがコーシーとラメの数学的失敗を解説したクンマーの論文だったのです。
パウルは、クンマーの論文を読んでいく中で、1つのポイントに注目し、興奮しました。
そこには、論理が飛躍した部分があったからです。
「これは!」と感じたパウルは、この論理の欠陥を修復するべく、自ら様々な証明や論文を書き上げていきました。
クンマーはフェルマーの最終定理は解決できないと述べていましたが、もしこの論理に間違いが含まれるなら、クンマーの主張する「フェルマーの最終定理は解決できない」という主張自体が間違っていたことになるかもしれない。
まだ人類にはまだフェルマーの最終定理が解決できる余地があるかもしれない!
そう期待したのかもしれません。
だからこそ、パウルは無我夢中で数学の証明に取り組みました。
パウルの努力が実り、無事にクンマーの論理の欠陥は修正されました。
その結果、クンマーの証明はより正確であったことが確定されました。
つまりは、フェルマーの問題を解決できる可能性は0に近づいたと言えます。
最終的には、パウルの期待とは逆の方向に論理が進んだのかもしれません。
ただ、この証明に夢中になったおかげで、自決をする時間はとっくに過ぎており、パウルは自決を免れたのでした。
数学に命救われた!
といっても過言ではありませんね。
このような経緯があって、パウルはフェルマーの最終定理に懸賞金10万マルクをかけたというわけです。



賞金の話は、パウルの親族もびっくりだったそうです笑
さて、このように懸賞金がついた伝説の定理を前に、世界のプロアマ問わない数学者たちが、フェルマーの最終定理に挑んでいったのでした。
ちなみに、以降「フェルマーの最終定理が解けた!」という論文の数々が、次々とプロの数学者になだれこんできて、対応するのがめちゃくちゃ大変だったらしいです。笑
もちろん、それら全部間違っているし、アマチュアもいるためか、初歩的なミスをした論文も多かったらしいです。
さらに、この時期になると偉大な数学者の1人、ヒルベルトが「もっと数学を完全なる学問にしようぜー!」という、ヒルベルトプログラムが始まり、IQ300の当時の大天才、未来から来た科学者と称されたフォン・ノイマンという人物もそのプロジェクトを推し進めていました。
このようなイベントも相まって、歴史でも例を見ないほど、数学は大盛り上がりしていたと言えます。
イェーイ!!数学の完全性を目指す!フェルマーも解く!数学の未来が眩しすぎて見えねぇよい!
とドンちゃん騒ぎになっていたのですね。
しかし、このお祭りの炎が一気に消えてしまうようなスキャンダラスな事実が証明されたのでした。



あの有名数学者同士が不倫!?みたいな話ではないので、ご安心を。笑
数学の限界の証明
数学界に大激震を起こしたのが、哲学者であり数学者のクルトゲーデルでした。
時は1931年。
25歳の未だ無名だった若き数学者クルトゲーデルは【現在の数学の論理体系においては、真か偽かを判断することができない証明が存在する】ということを発表しました。
超ざっくり言えば、数学は論理的に完全ではありえないっていうことです。
もっとわかりやすく説明しますと、
そもそも数学では、たくさんのルール(公理)をもとに、絶対的に正しい定理を築き上げていきます。
そのため、このルール(公理)を完全なものにして、完全なる正しい理論を示していきたいのが全数学者の夢でもあります。
しかし、ゲーデルは「もしそのルール(公理)が矛盾なく完璧だとすれば、「証明できない」という定理が存在し、その命題は実際には正しいにもかかわらず、その体系では証明できない」ということを厳密に証明したのです。
つまり、どんなに完璧に見える数学のルールでも、必ず「証明できない真実」が残ってしまうという残酷な定理。
遠回しに「現在の数学には限界がある」と言っているまさに大スキャンダラスな事実なのでした。
ややこしい話ですので、より補足しておきます。
- 証明できない定理が存在するのではなく、それが「正しい」か「間違っている」かを判断できない定理が存在するということ。
- 現在の数学体系では限界があるという話であって、数学体系をよりアップデートできれば限界を突破できるかもしれないということ。決して絶望的な話だけではない。
このことから、ヒルベルトが掲げたヒルベルトプログラムは頓挫してしまいました。
そして何より、フェルマーの最終定理が成り立つかどうかがわからないというエグい可能性が出てきたのですね。



きっとフェルマーの最終定理の懸賞金で人生を一発逆転を目指していた人間は、絶望の淵に立たされたと思われます。
もしフェルマーの最終定理が成り立たないのであれば、これまで数学者たちの奮闘は一体なんだったんだ!?そしてフェルマーは嘘つきかよ、ってな話になりかねないのですが。
こうして数学者たちの関心はフェルマーの最終定理から遠ざかり、別の分野へと移っていくのでした。
時代を経て、コンピューター技術を活用して証明を試みる数学者も現れたのですが、結局コンピューターを活用しても、厳密な証明を与えることは不可能でした。
もう人類はフェルマーの最終定理を解決できないだろう。
そんな空気感漂う中、ついに数学界に風穴を開ける光の勇者が現れました。
フェルマーの最終定理を解決する勇者の登場!
一生フェルマーの最終定理は解決されないと予想された中、1954年にイギリスのケンブリッジにてフェルマーの最終の最終定理を解決する1人の勇者が現れました。
それが数学者、アンドリューワイルズ。
数学界の誰もが「フェルマーはやめとけ」という中、そんな言葉に惑わされず、暗澹としたムードすらもガン無視。最大の難問とゲームをするかのようにフェルマーの最終定理に挑み、そして解決へと導いた、少年のような純粋な光を宿した人物です。
少しだけアンドリュー・ワイルズの生涯を解説していきます。
アンドリュー・ワイルズは1953年、イギリス・ケンブリッジで生まれました。
幼い頃から数学に魅了された彼は、ずっと数学に夢中になっていたそうです。
そんな彼がフェルマーの最終定理に出会ったのは、なんと10歳の頃。
図書館で数学書を読んでいる時でした。
「こんな問題が300年以上も解決されていないなんて!」という衝撃と共に、「これは僕が解決するんだ!」と決意したのでした。
彼はあれこれフェルマーの最終定理に取り組んでいる中、さまざまな過去の数学者たちのアプローチなどを学んでいきました。
徐々にワイルズにとってフェルマーの最終定理を解決するのは、使命とへと変わっていくのでした。
ワイルズはいつかはフェルマーの最終定理を解決するという野望を胸に秘めたまま、大学へ進学し、どの数学分野を研究するかを決めるタイミングが訪れます。
ワイルズの「フェルマーを解決したい!」という野望を聞いていたコーツという先生は、なんと「楕円」という分野を勧めます。
楕円?フェルマーの最終定理とは別の分野だったはず。関係なくないか?
と思いながらも、先生の助言通りに楕円の分野に進んだのですが、この選択こそがフェルマーを解決する完璧な選択だったのです。
彼はしばらくは大学の仕事を打ち込んでいましたが、時が来て、ようやくフェルマーの最終定理を解決すべく、すべての仕事を断って全集中するようになります。
屋根裏部屋に引きこもり、およそ7年間、日夜研究に没頭したと言われています。
そして彼は最先端な整数論の技術や、楕円曲線、モジュラー形式といった新たな数学の道具を駆使し、フェルマーの最終定理に挑み、ついに解決したのでした。
その道中は険しく、証明した後も欠陥が見つかったりして、多くの困難や挫折に襲われるワイルズでしたが、そんな中でも情熱の炎は衰えることなく、やり遂げたのですね!
次回は、最終章ということで、どのようにフェルマーの最終定理は解決されたのか?をご紹介していきます。