どうも、丸田です。
今回は「我思う、ゆえに我あり」で有名な哲学者、ルネデカルトについて紹介します。
「あれ?哲学者?」と思うかもしれませんが、実は数学においても素晴らしい実績を残しているのです。
なんと方程式と幾何学という2つの分野を1つに統合するという画期的な手法を確立させました。
というわけで、今回はルネデカルトの生涯と残した業績を解説していきます。
ルネデカルトの生涯
身体が弱かった幼少時代
舞台は1596年頃。
デカルトはフランスのある貴族の家に生まれました。
非常に優秀なデカルトですが、幼少時代は身体が弱かったそうです。
ですので、朝早く起きることができず、昼まで寝ていました。
しかし、このぐっすり眠る習慣が、デカルトが深く思想するための誰にも邪魔されない時間だったのかもしれませんね。
ありとあらゆる学問を学び尽くした結果…
メキメキと才能を発揮したデカルトは学業も優秀で、18歳でポワティエ大学へ入学します。
その後、法学、医学、数学、錬金術など数々の学問を学び尽くしました。
めちゃくちゃ勤勉!!
オールマイティにまんべんなく学問を学び尽くした結果、デカルトは感じました。
「この中に信用できるものはない!」と笑
つまり、ありとあらゆる学問を学んだけど、それはあまり信頼できない。
唯一信頼できる学問は数学だ、と感じたのですね。
というのも、その当時はルネサンスや宗教改革が起こり、今まで真実だとされていたことが間違っていたという世の中が覆るという事態が起こっていたからです。
最も有名なのはガリレオガリレイの「地動説」。
それだけ多くの新事実が発見されていたこともあり、学問への信頼がなかったのですね。
ちなみに、その当時の学問は信仰という根拠薄い材料で学問が成り立っていたのです。
その状況を把握したデカルトは、真理の獲得は信仰ではなく、理性で獲得すべきだ。
そうすれば間違えることはない、と考え、正しい理解を手に入れるための活動を始めるのでした。
いろんな場所を巡り、世界という書物を読み解く
デカルトの「方法序説」の第一部に以下の表現があります。
わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、【文字による学問[人文学]をまったく放棄してしまった。】そしてこれからは、わたし自身のうちに、あるいは【世界という大きな書物】のうちに見つかるかもしれない学問だけを探求しようと決心し、青春の残りをつかって次のことをした。
方法序説 第一部より
ありとあらゆる学問を学び尽くしたデカルトが次に考えたのは、実際に目で見て感じたことから学ぶということでした。
そこから様々な場所を転々と哲学の旅に出ました。
旅先で出会った数学者や政治関係の人、技術者など様々な人々との交流を図るようになります。
その中でもイザークベークマンという医者でありながら、自然学者、数学者として幅広い知識を持つ人物に強い影響を受けます。
1619年、デカルトが23歳の時に三十年戦争が始まってしまったのです。
デカルトはこの出来事をきっかけにドイツへ向かいました。
そして軍隊として活動しながらも、哲学への道を本格的に歩み始めるのでした。
「方法序説」を出版し、有名に
32歳でオランダの地に移住しました。
この地にて哲学の研究に没頭していきます。
そして9年の歳月を経て、ついに「我思う、ゆえに我あり」で有名な「方法序説」を出版しました。
さらに、その付録として3つの論文を発表したのですね。
この方法序説に記載された哲学、論理が当時革新的で、デカルトは有名になりました。
デカルト哲学の何がスゴイのかというと、それは「方法的懐疑」という、すべてを疑ってみるという視点でした。
この方法が大きな波紋を呼び、デカルトは近代哲学の父と呼ばれるようになりました。
1650年、最後の旅先で生涯を閉じる
1649年からデカルトはスウェーデンの女王クリスティーナの家庭教師を務めることとなりました。
女王クリスティーナは数カ国後を操り、文学・芸術に深く関心を持っていたようで、デカルトの哲学にも非常に興味がありました。
ですので、デカルトに対してスウェーデンへ家庭教師を依頼したのです。
権力すげー!
デカルトはこれを受け入れ、スウェーデンへ向かいました。
1650年1月からクリスティーナはデカルトに毎朝5時から講義することを要求。
朝起きるのが苦手だったデカルトは、スウェーデンの真冬の寒さに対応できず、風邪そして肺炎を併発し、この世を去ってしまいました。
以上が、デカルトの生涯・生い立ちでした。
ルネデカルトの業績
ではここからはルネデカルトの業績をご紹介します。
方法序説で解説された「方法的懐疑」の発明
デカルトが出版した「方法序説」という書籍において、非常に斬新な哲学的思考があります。
それが「方法的懐疑」という考えです。
自分のこれまでの常識や知識を全て疑い尽くした結果、自分が考える行為こそが、唯一疑えない存在であることを提唱しました。
これをデカルトは「我思う、ゆえに我あり」と発言しています。
この哲学は従来の哲学観を一気に塗り替え、今までの宗教的世界観を科学や論理を重視した世界観へ変えてしまったのですね。
現代のロジカルシンキングの源泉は、このルネデカルトの哲学といっても言い過ぎではありません。
座標平面の発明
学生の頃に学ぶグラフという概念。
実はデカルトが発明した手法なのですね。
デカルト平面とも言われます
この座標平面は何がスゴイかというと、y=~x+~~~みたいな方程式を図形を用いて表現できることなのです。
ちなみに、これは代数学と幾何学という数学の異なる2分野が合体した歴史的瞬間でもあるのですね。
従来は方程式は方程式としてしか解決、研究ができませんでした。
しかし、それを図形的アプローチを取り入れることで新たな道を切り拓いたのです。
例えば、二次方程式をグラフにするとワイングラスみたいな形をしているわけですが、このような形として表現すれば、最大値や最小値を求めることができるようになります。
決まった制限の中での最大値・最小値を求める際にもこのグラフは有効活用されます。
グラフや微分積分なども、この座標平面が土台になっておりますからね。
つまり座標平面の発明は、今後の数学に大きな影響を及ぼした大発見なのです。
デカルトは、天井にハエが飛んでいるのを見て、座標のアイデアを思いついた、という説もあります。
機械論的世界観を提唱し、物理学にも貢献
「機械論的世界観」を提唱しました。この世界観は、自然界や生物、人間の行動などを機械的なプロセスや物理法則によって説明しようとする哲学的立場です。
この考え方はどちらかと言えば、かなりの理想論ではあります。
この考えが科学を発展させるキッカケになったと考えられます。
この機械論的世界観とは、あらゆる物事は把握することが可能であるという前提に成り立った理論で、世の中の自然現象は必然でできていると考えています。
なので、自然界に起こること(生命現象なども含む)には目的や意志は無く、機械のように物理や科学の法則によって説明できるという理論です。
ある意味、この世界をドライに観察するという点では、数学チックですね。
ルネデカルトの生涯・業績のまとめ
今回は哲学者であり、数学者でもあったルネデカルトをご紹介しました。
生涯、すべてを疑い尽くして新しい哲学を生み出した偉大なる人物ですが、数学においても座標の発明とその功績は止まることを知りません。
ルネデカルトの書籍は色々ありますので、ぜひ参考にしてみてください。
参考書籍
方法序説
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