世界を変えた天才科学者ニュートンの素顔とは?生涯と功績、そして意外な研究

どうも、マルタです。

リンゴが木から落ちる瞬間を見て「万有引力」を思いついた人物、アイザック・ニュートン。

おそらく誰もが知る、天才科学者です。

彼は若い頃から天才性を発揮し、20代から万有引力を発見して世界的に有名になります。

生涯を通して、完全無欠の科学者人間!

と思うしょう。

しかし、彼には知られざる裏の顔、なんかもあったりします。

ということで、今回はニュートンの生涯と実績を追いながら、彼の裏の顔なんかにも迫っていきたいと思います。

最後まで読んでいただけると、「え!ニュートンそんな人間なん!?」と驚くこと間違いなしです笑

目次

ニュートンの輝かしい生涯と実績

聖なる誕生!

ニュートンは1643年、12月25日のクリスマスに、イングランドのウールスソープという小さな村で生まれました。

農家の一人っ子して生まれたのですが、体が弱く、医者からは「長くはないだろう」と言われていたそうです。

また生まれた時から父親がいなかったので、母親一人で育てられていたそうです。

とても世界を轟かす天才とは思えない境遇ですよね。

しかし、医者の予言を見事外し、スクスクと育っていきます。

小さい頃から生粋の発明好きで、水時計や風車などを自作してしまうほどだったと言われています。

水時計や風車、火時計を、自作してしまうほどだったと言われています。

そして、学業を通して、どんどん彼の才能は花開いていきました。

ただ、ニュートンは人の言うことを聞かないタイプでして、農作業を学ぶよう母親から言われた時は、生垣の影で本を読んだり、計算したりして時間を過ごしていたそうです。

超一流の科学者のエッセンスを取り入れる

しかし、彼の才能が注目され、1661年、ニュートンが18歳の頃には、トリニティーカレッジという学校に入学。

当時、世間を席巻していたデカルト哲学、ガリレオの物理学、天文学者ケプラーの惑星軌道の理論、そして師匠アイザックバロウの数学など、超一流たちの研究に刺激され、彼は本来の才能を見事開花させ、名声を轟かせていきます。

1665年頃に、ニュートンは学芸博士号を取得しました!

よっしゃ、これからもっとキャリア詰むぜぇ!って時に、思いも寄らない出来事が起こりました。

パンデミックでソーシャルディスタンス

なんと1665年の夏にペストが発生。大学は閉鎖され、ニュートン自身もやむなく故郷に戻りました。

それから1667年の春まで大学をほとんど閉鎖されており、授業も受けることができません。

まさにソーシャルディスタンス、自粛状態です。

しかし、天才は違いました。

彼はこの自粛中に、「流率法」という、後の「微分積分」と呼ばれるアイデアを閃きました。

そして、りんごが落ちるシーンから万有引力を発見します。
これにより、すべてのものはお互いにある法則によって、引き合っているのだという法則を発見したのでした。

さらにプリズム実験と呼ばれる手法によって「白色の光は、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫など複数の色の混合である。」ということも発見しました。

つまり、ニュートンは自粛中に

  • 微積分法の基礎理論
  • 光の分解(プリズム実験)
  • 万有引力の着想

と、今後の科学を根底から変える発見を連発しました!

どれも科学理論を大きく飛躍させる大発見ですが、これらすべてはわずか2年で発見したものとなります。

天才の極み!!

こうしてニュートンの名は世界中に轟いていくのでした。

大天才の裏の顔が現れ始める

ここまで若きニュートンの生涯をご紹介しました。

ここまではただの天才エピソードです。

彼の面白いのは、20代後半から晩年にかけて、いろいろやらかすところにあります笑

ということで、ニュートンの裏の顔に迫って参ります!

自然科学と同時並行に水面下で行っていた秘密の研究

ペストが収束し、大学に戻った彼は、順調にキャリアアップを果たし、若干27歳でケンブリッジ大学の教授に就任。

そして1672年、30歳頃の時、ニュートンは彼の研究における発見を権威ある王立協会で発表しました。

その結果、ニュートンは王立協会の特別研究委員として招待されることになります。

さらに、プリンキピアと呼ばれる、自然科学理論をまとめたもので、最大の科学書として知られているのですが、それを刊行しました。

まさに、強靱!無敵!最強!

そんな大天才ニュートンですが、数学・物理学の研究と同時並行で、

実は裏でひっそりとある研究をしていました。

それが「錬金術」だったのです。

なかなかオカルトチックな話ですが、

実は当時の科学者はこぞって錬金術を研究しておりまして、

物質を金属に変え、不老不死を実現するとされる魔法の物質「賢者の石」を作るという究極のゴールを夢見て邁進していたのです。

ちなみに、錬金術の研究は「水銀」など、危ない薬品を使うので、命懸けと言っても過言ではありません。

ニュートンもその一人ですが、彼の没頭具合はすごくて。

なんと20代後半ぐらいから、実に30年以上はずーっと賢者の石の生成の研究を続けていたのです。

ニュートンは研究中、没頭しすぎたあまり、

ゆで卵を作ろうとおもって、間違って自分が愛用していた腕時計を茹でてしまったという話もあります。

しかし残念ながら、賢者の石の生成には失敗しました。

というより、あまりにも非合理的な部分も多く、現代でもニュートンの錬金術研究は完全なる解明がされておりません。

いろんな学者たちはニュートンの残した文献から察するに、

残っている資料としては、

「惑星の変容」「ミクロコスモスの謎」「明かされた秘密、あるいは閉ざされた応急への開かれた門戸(もんこ)」

など、なかなか説明に悩むような論文が大量に見つかっているのです。

またニュートン自身、めちゃくちゃメモ魔だったと言われており、何かあればすぐメモする正確でした。

のちに見つかったニュートンの研究のメモ帳には、「オーク」や「緑のライオン」といった謎の記述などもあったそうです。

彼は一体何を作ろうとしていたのか…?気になりますね。

このようなニュートンの残した錬金術の資料は、彼が亡くなったのちに、「これは素晴らしい」「これはひどい」といった賛否両論の嵐だったそうです。

しかも彼の論文は、1900年代頃に、競売にかけられるという、超プレミア資料となっていたそうです。

賢者の石の生成には失敗していますが、彼の研究技術は、とても的を得たものとされており、

当時の助手だった、スチュークリーはニュートンの錬金術の研究を、「キミストリ」と呼びました。

これがのちの化学(ケミストリー)につながっていると言われています。

貨幣通貨の仕事に転職

1696年、ニュートンが50をすぎたあたりから、精神疾患に陥り、やむを得ず錬金術の研究を終えました。

これからどうするか?を考えたいたところ、当時の大蔵大臣だったモンターギュという、やり手のビジネスマン、政治家にスカウトされて、

貨幣通貨関連の仕事を始めました。

具体的には、通貨を偽造したり、多く通貨を奪うような犯罪者を摘発するという役割でした。

意外ですよね〜笑

ニュートンの仕事ぶりは完璧だったらしく、3年後には、造幣局長官というえらい役職に任命され、ニュートンはそこで生涯働くことになったのでした。

彼は晩年以降も、数学や自然科学の研究を続けており、金と銀の純度を比べる技術を身につけたり、税率計算の提案なども行っております。

またあまり世間には知られていませんが、様々な小論文なども発表しているのです。

その結果、1703年には、イギリスの王立協会会長にまで上り詰めることとなります。

と、50過ぎたニュートン、なんだ順調じゃん!と思うかもしれませんが、

実はここ10年近くの間、とある数学者と大論争を繰り広げています。

天才数学者と大論争を繰り広げる

ニュートンは、ひっそりと世界を変えるような画期的なアイデアがありました。

それが先ほど登場した「微分積分法」でした。

実はニュートンは控えめな性格で、一部論文を隠していたのです。

タイミングを測っていたとされます。

そんな中、「私!微分積分思いつきました!」という論文が登場したのです。

なにぃ?一体誰が?

その相手というのが、ライプニッツという数学者でした。

このライプニッツは、1000年に1人の天才と言われるほどキレる人物なのですが、

ニュートンはライプニッツと

「どっちが微分積分を先に発見したか?」で大口論になります。

いわば、覇権争いをやってたわけです。

ニュートンは、これまで自然科学を通して、研究してきました。

一方ライプニッツは、実は哲学者としてのキャリアが先で、哲学という視点から数学を研究していました。

そんな両者が、なんとほぼ同じタイミングで、ほぼ同じ微分積分論を導いてしまったのです。

そして、ライプニッツが微分積分の論文を発表したところで、ニュートンがブチギレまして、最終的に裁判にまで発展します。

お互いの主張は以下の通りです。

この法廷バトルの論点は大きく以下の通りです。

ライプニッツの方が論文を出したタイミングが早い

ニュートンはアイデアを思いついたのが早い

つまり「微分積分」を創ったというのは、アイデアを思いついた段階で創ったと言えるのは、あるいは論文を発表した(論文を発表するまではアイデアは認めない)段階で創ったと言えるのか。

という点ではじまったのですね。

しかも、この論争はライプニッツとニュートンの間だけでなく、ライプニッツ陣営VSニュートン陣営という、いわゆるドイツVSイギリスという国を超えた論争にまで発展してしまいました。

ライプニッツは、イギリス王立協会に直訴(じきそ)しました。

しかし、この勝負、ライプニッツの勝ち目はほぼ0%です。

なぜなら、ニュートンこそがイギリス王立協会の会長だったからです。

つまりは直訴した相手の最高権力者だったというわけですね。

激しい主張をしたためた手紙のやり取りが何往復もされ、お互いに言い争いました。

このやり取りが10年以上続くのですが、結果的に不毛な争いだと、ライプニッツが折れそうです。

しかし、現在の微分積分の記号など含め、ライプニッツの理論が広まっているのです。

イギリス科学を100年遅らせた大罪

もう一つだけニュートンのエゲツない一面があります。

それは王立協会の権力を思うがままに振り回したことです。

この出来事は、イギリス国内の科学の進展を100年遅らせた大罪と言われたりもしています、

イギリス王立協会に所属する天才物理学者ロバート・フックがいました。

フックといえば、「フックの法則」と呼ばれる、物理学のばねの性質を解明した有名な法則があります。

そんなフックは、自然哲学者、建築家、博物学者、生物学者と幅広い分野で活躍していますが、彼の業績は実はあまり知られていないですね。

そう、これはすべてニュートンの仕業です。

以前から、ニュートンとフックは交流があったそうですが、フックはニュートンに辛くあたっていたいました。

しかし、1703年にフックはこの世を去り、ニュートンはイギリスの王立協会の会長になることで、すべての権力を手にしてしまいました。

この時、ニュートンは61歳なのですが、84年で寿命を迎える24年間、自由自在に権力の乱用を行いました。

積年を恨みを晴らすかのごとく、フックの全てを抹消し始めました。

まず協会内部に飾られてあるフックの肖像画を全て撤去。

その後王立協会に保存されていたフックの論文、原稿などを全て燃やし尽くし、トドメに王立協会のすべての名簿からフックの名前を消し去り、こうしてフックの歴史的記録は完全に消えてしまいました。

こうしてフックの全てを世界から消してしまったニュートン。

さらにタチが悪いことに、造幣局という、国の紙幣を扱う部署の長官でもあったため、行政的な権力も握っていました。

このことから、ニュートンによる恐怖政治が始まるのでした。

ニュートンは「悪人必罰」という主義をかかえ、なんと貨幣を偽造したり、くすねる者を捉えて、処刑してしまったのです。

ニュートンは、悪人を片っ端から捉えては、処刑するというヤベェ人間になってしまっていたのでした。

おまけに、ニュートンは自身が編み出した科学理論を批判することを禁止し、「こういうのはどうですか?」という意見すらするものは血祭りに挙げられてもおかしくないのでした。

このように若き頃の天才とは、想像もつかないような裏の一面を晩年に見せ始めたのでした。

しかし、ニュートンは腐っても天才です。

いくつもの小論文を発表してはそれが認められ、毎年毎年、会長が交代することなく、84の寿命を真っ当するまで、イギリス王立協会の会長を勤め続けるのでした。

そして、亡くなったのちも

しかし、最後は

なお、ニュートンの遺体からは多量の水銀が見つかっていることから、彼の疾患の原因は、長年の錬金術研究によるものだという考えがあります。

まとめ ニュートンの光と闇

今回は、ニュートンの生涯について解説しました。

いやぁ、なんだかエゲツナイ人物ですよねー笑

彼の光の業績としては、

  • 微積分法の創始
  • 万有引力の発見
  • 光のスペクトル分析による光学への貢献
  • 『プリンキピア』による物理学の基礎確立

がありますが、闇の業績としては

  • 錬金術に没頭しすぎる
  • ライプニッツと大論争
  • フックを歴史から抹消

とある、とても二面性あるユニークな天才です。

そんなトラブルはいろいろありましたが、科学に対してはとても真摯に向き合っていました。

ニュートンの言葉の中に、こんなものがあります。

私は海辺で遊んでいる少年のようである。
時折、普通よりもなめらかな小石や、かわいい貝殻を見つけて夢中になっている。

真理の大海は、全てが未発見のまま、私の目の前に広がっているというのに。

自らの天才を鼻にかけるどころか、むしろ自然の壮大さの前に謙虚であり続けたニュートン。この姿勢こそが、彼の偉大さの源なのかもしれません。

しかしその裏で、錬金術や他にも聖書や予言、神学といった不思議な研究にも没頭していたというのは、エゲツナイ好奇心ですよね。

最後まで読んでくださり、ありがとございました!

参考書籍

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