1000年に1人の天才!微分積分の創始者であり、近代数学を切り拓いたライプニッツの生涯と業績

ライプニッツ

どうも、マルタです。
今回はドイツの数学者、哲学者、論理学者のライプニッツをご紹介します。

ライプニッツという名前はあまり聞き馴染みがないかもしれません。
しかし、彼は数学を目覚ましく発展させた天才です。

その才能たるや1000年に1人の天才を呼ばれるほど。

ライプニッツの一番の業績はなんといっても、「微分積分学」の理論を構築したことでしょう。

微分積分といえば、数学界のスターですよ。「数学といえば何?」と聞けば、返ってくる回答TOP3に入ってもおかしくありません。それぐらい、誰もが一度は聞いたことがあるぐらい有名でしょう。

しかし、じゃあ「微分積分、何使うん?」と韻を踏んだ疑問を感じたことがあるかと思います。

微分積分は現代社会でも大いに活用されており、例えば

  • 物体の動きの予測、力学の解析
  • 昔の物から年代を測定する、考古学
  • 薬の副反応や使用量を決定するための医学、薬学
  • 経済・金融への応用
  • 天気や雲の動き、パターンから天気を予測するシステム
  • オーディオと画像処理の基礎に使われる
  • 人口予測

などに応用される学問で、微分積分で現代のテクノロジーが大きく発展しました。

「数学?暇人の思考遊びだろ」と思われていたのですが泣、微分積分により一気に実社会すらも大きく変える数学へと発展しました。

これぞまさに近代数学の幕開け!

世界を大きく変えた理論の生みの親、大天才ライプニッツですが、どんな生涯を送ったのでしょうか。またどんな業績をこの世界に残していったのでしょうか。

今回は微分積分の創始者、ライプニッツの秘密に迫ります。

目次

ライプニッツの生い立ち

ライプニッツは本名、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ。
数学者、論理学者、哲学者として1646年から1716年の間、活躍した科学者です。

哲学に触れ、法学を目指した青年時代

ライプニッツは、1646年7月1日にドイツのライプツィヒで生まれました。彼の父フリードリッヒはライプツィヒ大学の哲学教授であり、ライプニッツは幼い頃から哲学と神学の書物に親しんで育ちました。

幼少期は、数学よりも哲学派なライプニッツなのでした。

ちなみに、ライプニッツは幼少期から天才だったそうで、8歳の頃にはラテン語の文章を1人で読解したと言われております。イメージするなら、日本人の子供が洋書を読み漁っている感じでしょうか。凄すぎる…。

1653年にニコライ学院に入学。1661年にニコライ学院を卒業、ライプツィヒ大学へ入学。
そこで数学と哲学を学びました。

1663年に哲学の学士論文を提出。その後4ヶ月間、イエナ大学へ移り数学や法学、史学を納める。

その後、ライプツィヒ大学へ戻り、哲学の修士へ。のちに1666年には、ニュルンベルクにあるアルトドルフ大学へ移り、法学の博士へ。こうして法学・哲学を志す青年時代を送るのでした。

大学を中退した僕とは違い、超アカデミックでエリートです。

権力者に仕えて、大出世。そして哲学への関心も深める

学位を取得した後、ライプニッツは数々の法律や外交関連の職に就きました。

1668年にはマインツ大司教という権力者に仕えたりしており、かなり出世したようです。

それと同時に、鉱山開発や金融の貨幣制度に貢献したり、また哲学への理解をより深めるよう努めていたそうです。

数学に関心を持ち始めるのは、他の数学者に比べれば少し遅めです。しかし、このライプニッツの活躍が、のちの大発明につながります。

ニートへ。そして微分積分学を創設

バリバリ働いていたライプニッツでしたが、1673年にマインツ大司教が亡くなってから仕事を失いました。

現代風に言うなら、ニートです。

「さて…どうしたものか…」と。

そこでライプニッツは、パリで求職活動しながら、多くの学者と交流を深めていきました。

ホイヘンスなど数学の天才との交流により、ライプニッツは数学の才能が開花。帆ナック的に研究を進めていきました。

そして1675年、ついにあの微分積分法を発見します。

論文で世間に公表した時は、かなりの反響があったのではないかと思うほどの影響力です。

当時は、数学業界は微分積分に関するアイデアはありました。

例えばフェルマーは接線を引く際の無限の考え方に微分を応用したり、天文学者ケプラーは天体の軌道を調べるために積分の考え方を活用したり。

ただ、確固たる理論には、至っていなかったのですね。

そんな数学界に微分積分の確固たる理論を打ち立てたのが、ライプニッツです。

万歳ライプニッツ!万歳ライプニッツ!と、きっと数学会は盛り上がったんだろうなぁ〜と妄想できますね笑

この微分積分は革命的で、テクノロジーを発展させ、一気に世界を変える役割を果たした、まさに近代数学が始まるきっかけとなりました。

ちなみに、近代数学は数学と科学と社会が結びついた新たな数学文明です。

こうして、ついに!微分積分学が確立されたのでした。

ニュートンと争うため裁判へ。そして和解…?

ただですね、、、実はライプニッツは裁判沙汰に巻き込まれてしまいます。

なぜなら、「微分積分は俺が見つけたんだ!」と主張するヤツが現れたからです。

全く…あの天才ライプニッツの人生賭けた研究を横取りしようとするヤツがいるなんてけしからん!

一体どこの馬の骨だよ!?…ってえぇ!!!!

に、に、、、ニュートンさん!?

とまぁ、茶番を挟みましたが…。あの万有引力を発見したことで有名なアイザック・ニュートンが「俺がライプニッツより先に微分積分を見つけたんだ!」と主張し始めたのです。

これにはライプニッツも困惑。。。

微分積分の創始者は、ライプニッツか?ニュートンか?

このバトルに勝利し、歴史に名を刻むのは果たしてどちらか?!

お互いのプライドを賭けた熱き戦いの幕が切って落とされたのでしたぁ!!

うぉぉぉぉぉおーーーーーー!!

という感じで、二人は法廷で戦うことになったのでした。

まぁこう書くとニュートンが一方的にイチャモンつけてきたように見えますが、実際はこの裁判はけっこう大変でした…。

というのも、実際にニュートンが先に発見した証拠が次々と見つかったからです。

この法廷バトルの論点は大きく以下の通りです。

  1. ライプニッツの方が論文を出したタイミングが早い
  2. ニュートンはアイデアを思いついたのが早い

つまり「微分積分」を創ったというのは、アイデアを思いついた段階で創ったと言えるのは、あるいは論文を発表した(論文を発表するまではアイデアは認めない)段階で創ったと言えるのか。

という点ではじまったのですね。

しかも、この論争はライプニッツとニュートンの間だけでなく、ライプニッツ陣営VSニュートン陣営という、いわゆるドイツVSイギリスという国を超えた論争にまで発展してしまいました。

ただ、悲しいことにニュートンの方が圧倒的優位でした。

なぜなら、ニュートンはイギリス王立協会のメンバーであり、超権力者だったからです。

このイギリス王立協会のメンバーには、進化論で有名なチャールズ・ダーウィン、インド屈指の天才数学魔術師と呼ばれるラマヌジャン、アルベルト・アインシュタイン。そして天才b写り学者スティーヴン・ホーキンスなど数々の世界に名を残した科学者が在籍するほどの世界的権威ある協会です。

つまり、ライプニッツVSニュートンの論争というのは、若きSNSマーケッターVSホリエモンみたいな感じです。

果たしてどちらの言葉に説得力があるかは、なんとなく察しがつきますよね。

はい、ニュートンのほうが発言力が強く、ライプニッツは劣勢だったそうです。

ただ、ライプニッツは裁判に疲れ果ててしまい、ついには「もうやめにしよう…」と懇願したそうです。

これで一応収束した(?)ようです。※この辺り、史実では曖昧…。

ただ最終的には、ライプニッツが折れたようですね。

ただ面白いことに、ニュートンが発明した微分積分とライプニッツが発明した微分積分、どちらが世界に広まったかというと、ライプニッツなのですね。

そして、今現在でも微分積分の基礎はライプニッチの理論が採用されております。

【補足】ニュートンとライプニッツは仲良かった説

史実によると、実はニュートンとライプニッツはもともと仲が非常に良く、一緒に研究していたそうです。その研究内容が後の「微分積分学」でした。

当時、2人は研究内容を世間に公表するつもりはなかったそうです。
しかし、フェルマーやデカルトの活躍により、数学業界に「無限」や「微分積分」に近い学問への需要が高まりました。

それに気づいたライプニッツは、「んじゃ俺の成果にしちゃおう♪」と思い、独自に微分積分の論文を書き上げて世に公表したとのこと。それでニュートン激怒。みたいな感じだそうです。

みんな仲良くやれよ〜。

晩年は哲学への追及へ。そして痛風に倒れる

微分積分のいざこざが終わったのち、ライプニッツは哲学への再び関心を向け始めます。

ライプニッツは「自分以外に自分が存在しないのはなぜか?」という疑問を常に考えていたそうです。

つまりは、自分はこの世に1人しかいないのか?みたいな話ですね。

この思考をまとめた本を出そうと、原稿をまとめようとするのですが、徐々に彼は病に蝕まれていきます。

腎臓が悪くなり、さらに痛風を発症。ハノーファー市内シュミーデ街の自宅で1716年、静かに息を引き取りました。

没後、哲学思想「モナドロジー」が世に広まる

彼が残した原稿を元に編集され哲学書が刊行されました。

それが「モナドロジー」という、ライプニッツが人生かけて編み出した哲学が詰まっています。

没後も、世界に価値を発信できるのは素晴らしい生き様ですよね。

それが「モナドロジー」です。1720年に出版されました。

このモナドロジーは僕も読んだことがあるのですが、微分積分に少し似ているような気がしています。

もしかしたら、ライプニッツは若い頃に、モナドロジーの思想を考え、そのモナドロジーから微分積分の着想を得たのかなと考察します。

多くの数学者は幼少の頃から、数学に触れているのに対し、ライプニッツは哲学に触れていました。

この哲学→数学という特異なキャリアがもしかしたら、微分積分の誕生には必要だったのかもしれませんね。

ということで、ライプニッツの生涯を辿ってきましたが、ではライプニッツは具体的にどのような業績を残したのか。詳しく迫りたいと思います。

ライプニッツの業績

哲学・法学、そして数学と学び、世界を変えるライプニッツが残した業績をご紹介します。

1.微分積分学の創立

なんといっても微分積分の創立が有名ですね。

  • 物体の動きの予測、力学の解析
  • 昔の物から年代を測定する、考古学
  • 薬の副反応や使用量を決定するための医学、薬学
  • 経済・金融への応用
  • 天気や雲の動き、パターンから天気を予測するシステム
  • オーディオと画像処理の基礎に使われる
  • 人口予測

微分積分が現代のテクノロジーにも応用されていますが、すべてはライプニッツのおかげです。

じゃあ具体的に微分積分とは何がすごいのか?簡単にいえば、物体の動きを予測できるということです。

物体の動く軌道をかなり細かく分割することで、数秒先、数分先、数時間先の物体がどこの地点に存在するかを予想することが可能です。

もちろん、完璧に当たてるのは不可能ですが、方程式の精度やデータ情報が多いほどに限りなく近い予想が可能となるのですね。

イメージこんな感じ。

物体のごくわずかな時間に動く距離を計測していく、みたいな感じです。

最初は物体の動きの予測に使われていましたが、いつしか人口増加率や経済、金融、医療分野、そして考古学(年代測定法)などいろんな分野で応用されていったのですね。

こうして微分積分は数学、そして社会を大きく発展させていったのでした。

2.記号論理学を開発

記号論理学。聞き馴染みのない難しそうな言葉だと感じるでしょう。

記号論理学とは、その名の通り、論理を記号化して考えるということです。

イメージするなら、こんな感じ。

少年ジャンプの主人公のような人生を送るなら、友情!努力!勝利!が大事だ!

というセリフがあったとしましょう。

これって、もっと厳密にいえば、友情×努力×勝利=主人公

と言っているようなものです。

この「友情」と「努力」と「勝利」は概念であり、これをかけ算することは本来不可能なんですね。

なぜなら、かけ算は数字どうしで行うものだから。

だけど、友情×努力×勝利=主人公という、論理概念どうしを足し算やかけ算みたいに扱うようにしようとした試みが論理記号学です。

数字の足し算やかけ算を、「数字」じゃなく「論理」そのものにおいても適応してみようじゃないか!そうすればもっと厳密な論理体系が作れるはずだ!と考えたのがライプニッツです。

複雑な思考過程を単純な記号と数式にできるし、間違えることも減る。もっと厳密な論理体系が作れるはずだ!と考えました。

このような記号論理学をもっと厳密に体系化した数学者はのちに現れますが、この論理を計算するというアイデア自体がとても斬新だったのです。

そして研究するという道を切り開いたのがライプニッツなのですね。

この論理学における記号化と計算可能とするアイデアはのちに、コンピューターサイエンスの基礎にもなっています。

また他には、数学記号である「相似」を表す「∽」記号を採用したのもライプニッツです。

彼のこのアプローチは、論理学を形式的な科学へと導く重要な一歩となり、後の数理論理学の発展に大きな影響を与えました。

3.二進法の開発

二進法とは、0と1のみを使った数学です。

この二進法にライプニッツは魅了されました。

というのも、二進法は宇宙の完全性を表しているからだ、とライプニッツは考えていたからです。

「どういうことや」って話ですが、もっと具体的にいうと、0は無を、1は神を表しており、二進数は無から宇宙を創造している」と考えていたのがライプニッツです。

これはおそらく、ライプニッツが哲学や進学に没頭した過去からそう思う感性があったと思うのですが、実はバイナリーはデジタル社会においてとっても重要な概念だったりします。

二進法は我々が使う数字体系(十進法)と異なり、0と1のみを使って計算します。

ということは、それだけ複雑な理論も計算も楽になるというわけです。

この二進法を使うことで我々の情報処理がとても楽になり、現代のコンピューターやテクノロジーでも大いに活躍しています。

4.ライプニッツの公式を発明。円周率を解明が進む

ライプニッツの公式は以下の通りです。

ライプニッツの公式

なんだか意味不明な数式だなぁと思うかもしれませんが、この式には神秘が見え隠れしています。

そう、「円周率、π」の存在です。

この世で最も美しい、ローマでは神とすら崇めたてられていた円を構成する要素が式に含まれているのですよ。

よく見ると不思議な式だと思いませんか?

数式の「…」は、「足すと引くが無限に続く」ことを意味しています。

その結果、円周率が出てくるのは不思議ですよね。

両辺に4をかけてみたら、

ライプニッツ 円周率

このように円周率の値を求める式に変形するのです。

あまりにも不思議な現象で、ライプニッツの公式は数学においても有名な公式の1つとなりました。

ライプニッツは微分積分理論において、「無限」という概念を研究していたのですが、この無限の概念を足し算や引き算に用いると不思議な現象が起こることに注目したのです。

改めて「無限」って不思議ですよねぇ〜。そして、無限を計算に含めたライプニッツもすげぇ。

【補足】マーダヴァ・ライプニッツ級数

ライプニッツの公式ですが、厳密に言えば、ライプニッツよりも先にマーダヴァという人物が同様の公式を発見していたそうです。なので、しばしば「マーダヴァ-ライプニッツの公式」とも呼ばれます。

5.哲学書「モナドロジー」の発刊

ライプニッツは数学だけでなく、哲学についても深く追及していました。

ライプニッツが生きた時代は、ヨーロッパでも最も過酷とされた30年戦争が終結した時代だったため、世は荒れに荒れていました。

そんな悲惨な状況において、ライプニッツは人間や社会の在り方を考えました。

その結果、「統一」や「調和」が大事という哲学的な結論に至ったのですね。

そこで彼は人生かけて哲学を追及していったのですが、その中でも彼が没後、発刊された有名な著作が「モナドロジー」。

ザックリいえば、ライプニッツは「モナド」を重要視していたのですね。

…え?モナドって何かって?

モナドとは何か、の本の中で述べられている言葉を使うならば以下のようになります。

ここでわれわれが語ろうとするモナドというものは、複合されたものの中に含まれている単純なる実体に他ならない。単純とは、つまり部分を含まないということである

引用:岩波文庫「モナドロジー」より

とまぁ、何言ってんだって話ですが、簡単にいえば、この世の中は「これ以上分割できない最小単位」によって構築されているのではないかという哲学です。

イメージするなら物体です。物体もこれ以上分割できない「原子」が組み合わさって「分子」になり、その分子の集まりが体や身の回りの物質を構成しています。

このように最小単位の何かが組み合わさって、この世が成り立っている。そのように考えることでこの世界の仕組みを解明しようとしたのがライプニッツの哲学的試みなのです。そしてそれをするために「モナド」という概念を活用したのですね。

これがモナドロジーです。

このモナドを使って世界の「統一」と「調和」を図ろうとしていたのですね。

より深く興味があれば、ぜひとも「モナドロジー」を読んでみてください。

これは個人的な考察ですが、ライプニッツが微分積分を考えついたのは、おそらくモナドロジーという哲学思想がスタートではないかと思っております。

ライプニッツの生涯と実績のまとめ

今回は、ライプニッツの生涯と実績をまとめました。

改めて振り返ると、文句なしの天才です。1000年に1人の天才と称されるに値する業績の数々ではないでしょうか。

彼は荒廃した時代に生まれながらも、その才能と努力で微分積分学を構築。

その後も、哲学への研究。彼は亡くなる8日前まで執筆活動をしていたそうです。

生まれて亡くなるまでの間を全力で生き抜いた姿勢には、僕たちもぜひ見習いたい姿ですね。

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