どうも、マルタです。
今回は、有名なナイチンゲールについてご紹介します。
「え、ナイチンゲールが数学の記事に?」
そう思われるかもしれません。
ナイチンゲールと聞けば、おそらく看護師のイメージでしょう。
それは正しいです。
しかし実は看護というイメージとは裏腹に、統計学者でもありました。
そして、統計学的思考を武器に看護、そして社会を大きく変えた人物でもあるのです。
この記事では、ナイチンゲールの生い立ち、生涯を解説していきます。
ナイチンゲールは何した人?略歴
1820年
イタリア・フィレンツェに生まれる。数学と論理的思考に優れた教育を受ける。
1854年
クリミア戦争の軍病院に赴任。死因を統計的に分析し、感染症が主因であることを突き止める。
1855年
衛生環境の改善を実施し、兵士の死亡率を大幅に低下させる。
1860年
ロンドンに世界初の近代的看護学校を設立。看護を専門職として確立する。
1858年
統計図(ナイチンゲール・ダイアグラム)を用いて政府を説得し、医療制度改革を実現。
ナイチンゲールの詳しい生涯・生い立ち
天使、ナイチンゲールが地上に降り立った日
1820年。フローレンス・ナイチンゲールは、イタリアのフィレンツェで生まれました。
フィレンツェは英語で「フローレンス(Florence)」。フィレンツェで生まれたため、フローレンスと名付けられた。なお、「花の都」という意味がある。
家庭はイギリスのとても裕福な上流階級。
父と母、そして姉の4人家族でとても幸せに暮らしていました。
幼い頃のフローレンスはあらゆることに興味関心がある一方で、弱い者や傷ついた物を放ってはおけない優しい一面もあったそうです。
ちなみに、キャップという犬が傷ついた時にとても親身になったというのは有名な話です。
当時の上流階級の女性に期待されていた役割は明確です。
- 社交界での立ち振る舞い
- 結婚
- 家庭の装飾品としての教養
名門ケンブリッジ大学で学問を納めた父は、フランス語やドイツ語、イタリア語の語学から、古典や歴史、天文学などを教えていたのでした。
その一方で、社交界での立ち振る舞いを学ぶために社交場にも赴いていました。
当時の上流階級の女性に期待されていた役割は明確です。
- 社交界での立ち振る舞い
- 結婚
- 家庭の装飾品としての教養
逆に、女性が働くこと自体は良くないこととされ、素敵な女性になって、いかに良い結婚空いてを見つけるかが全てと言っても過言ではありませんでした。
しかし、フローレンスはこの価値観に馴染めませんでした。
彼女が関心を向けたのは、語学・哲学・そして数学。
特に父から受けた数学教育は本格的で、統計や論理的思考に強い素地を作りました。

母はフローレンスが、結婚できるのか?ちゃんと社交場で上手に振る舞えるのか?など心配で心配でたまらなかったそうです。
使命に目覚める!
そんなフローレンスに大きな転機が訪れます。
それは貧困で困っている人たちを目の当たりにした時でした。
その時以来、彼女は困っている人たちに毛布を配ったり、字を教えるなど、いろんな慈善活動に積極的に参加するようになったのです。
しかし、度を超えた慈善活動を見かねた家族は、「いい加減にしなさい」と、引っ越してしまうのでした。
パリのオペラなどヨーロッパ中を旅していき、美しい景色に見惚れていきます。
それでも常に頭の片隅には、貧困で困っている人たちの表情が浮かんでいたのでした。
そんな中、パリの社交界で偶然知り合ったのが、「メアリ・クラーク」という人物でした。
彼女だけが、唯一フローレンスの心を理解してくれる人物だったのです。
さらには、社交場でフローレンスの信念を理解してくれる人物がもう1人現れます。
それが「リチャード・モンクトン・ミルズ」という人物。
彼はフローレンスと恋人となるのでした。
使命に目覚めたフローレンス
25歳前後、フローレンスは明確な使命を自覚します。
自分は看護に身を捧げるべきだ
乳母だったゲール夫人が病気になったという知らせがキッカケでした。
ゲール夫人を看病したことで、フローレンスは看護師としての道を進むことを決意します。
しかし、ここで大きな壁が立ちはだかります。
女性が仕事すること自体良くないとされる風潮だけでなく、そもそも看護師という仕事自体が、低俗な仕事とされていたのでした。
当時の看護師は、酒飲みでやる気もない人たちがやっていました。
当然、家族は猛反対します。
それでも彼女は引き下がりませんでした。
彼女の看護への執念は凄まじく。
- 両親の留守中に病院を訪問
- 医療施設の運営状況を調査
- 看護の記録・報告書を徹底的に読み込む
結果、彼女は周辺の病院事情を誰よりも把握してしまったのです。
支援者現れ、ようやく仕事に就く
ナイチンゲールの能力を見抜いた支援者が現れます。
それが、後に彼女の長年の理解者・協力者となる夫婦でした。
それがシドニー・ハーバートとエリザベス・ハーバート。
エリザベスは、ロンドンの倒産寸前の病院の経営を立て直す仕事に、フローレンスを推薦してくれたのです。
この推薦状も後押しして、ついにフローレンスは看護に関わる仕事にありつけたのでした。
ここで重要なのは、彼女が単なる「献身」ではなく、
- 病院運営
- 記録管理
- 人員配置
といったシステム全体に関わったという点です。
これが後のフローレンスの活躍に大きく関わってきます。
才能開花!──クリミア戦争
1853年、クリミア戦争。
ナイチンゲールは、負傷兵の治療にあたるためトルコの病院へ派遣されます。
そこで彼女は異変に気づきます。
- 戦傷よりも
- 感染症で死ぬ兵士が圧倒的に多い
その時の人たちは、「戦場なんてそんなもんだから」と一蹴していたのですが、そこにメスを切り込みました。
死亡原因を分類し、割合を算出した結果、問題の核心が浮かび上がります。
死因の大半は戦争ではなく、不衛生な環境だった
下水、換気、清潔な水。
それらを改善すると、死亡率は劇的に低下。
この成果によって、彼女は「クリミアの天使」と呼ばれるようになります。
医療用品や設備の充足だけでなく、献身的な介護も相まって、「ランプの貴婦人」とも呼ばれるようになります。
数学が、政治を動かした
帰国後、ナイチンゲールは統計データを用いて政府を説得します。
彼女が用いたのが、有名なナイチンゲールのダイアグラムでした。


これは、
- 月ごとの死亡者数
- 死因別の割合
を一目で理解できるようにした図です。
これ何が重要かというと、感情論ではなく、誰から見ても一目でわかるような形を取り入れたことです。
視覚化されたデータで政策を動かした。
これは、現代でいう「データサイエンス」の先駆けでした。
働きすぎで動けなくなっても、なお働き続ける
これからキャリアアップを果たしていくぜ!という時に、彼女を悲劇が襲います。
なんと「クリミア熱」と呼ばれる、一度かかると治らないとすら言われた病気になってしまったです。
おそらく過酷な活動の結果と言えるでしょう。
フローレンスは慢性的な体調不良に陥ります。
この時に立ち上がったのが、フローレンスを支援してくれた、シドニー・ハーバートでした。
彼は、フローレンスの大きな功績と彼女の無事を祈るための寄付を募ります。
こうして設立されたのが「ナイチンゲール基金」でした。
結果的に、フローレンスは一命を取り留めましたが、体は衰弱しきってしまったために、長時間イスに座ったままの生活となりました。
かつてのように動ける体ではなくなった、フローレンス。
しかし、彼女の快進撃はここから始まります。
彼女は執筆と分析をやめませんでした。
- 医療統計の整理
- 看護教育の指針作成
- 政策提言文書の執筆
身体が動かなくなっても、思考は止まらなかったのです。
看護学校の設立
1860年。フローレンスは、ロンドンのセント・トーマス病院に世界初の近代的看護学校を設立しました。
これはナイチンゲール基金で集まった寄付金を使って設立された学校です。
これにより、看護師は
- 職業として体系化され
- 教育を受け
- 社会的地位を持つ
仕事へと変わりました。
看護は低俗な仕事という認識が変わったのでした。
こうして、フローレンスは現代に欠かせない看護の土台を構築し、現代においてもフローレンスの・ナイチンゲールの思想は病院や介護福祉などの施設に引き継がれているのです。
おわりに
ナイチンゲールは、単なる優しい天使ではありません。
- 数を集め
- 因果を疑い
- 図で示し
- 社会を変えた人物
でした。
彼女の本質は、
感情ではなく、構造を見たことにあります。
それこそが、
ナイチンゲールが「数学的思考の人」と呼ばれる理由です。









