生きづらさの原因は”意味の求め過ぎ”【数学徒然草】

どうも、丸田です。

最近、生きづらさが増してきているな〜と感じています。

僕は2022年頃から、どことなく生きづらさを感じ始め、2023年に今までやっていた広告業を一旦ストップして人生を見つめ直していました。

他にも僕が属しているコミュニティでも、仕事、人間関係、将来のことで悩んだり、どうしていいか迷ったりしている人が多いな〜という印象です。

「こういうのは気の持ちよう」とは思いつつも、やはり昔に比べると生きづらさは増してきているのかなと肌感覚で感じております。

では、この生きづらさとは何なのか?


考えた結果、1つの結論に至りました。

それが「意味を求め過ぎていること」です。

もう少し掘り下げれば、目的や結果、成果など。

これらの求めすぎが生きづらさの原因ではないか?と思うのです。

例えば、何かプロジェクトをするときも「これをする目的は何か?」をプレゼンしなければなりませんよね。
それに対して、明確な効果があると判断されれば実行。ダメなら没みたいな。

あるいは、何かスキル習得という目的のために本を買ったり、勉強したり、仕事のパフォーマンスを高めるために筋トレする、瞑想する、なども1つの目的思考であり、意味を求めているパターンです。

別に意味や目的を求めること自体は決して悪くありませんよ。
むしろ大切です。

しかし、「意味・目的を求めすぎなのでは?」とも思うのです。

成果や結果を気にしないことをしたり、ムダなことに没頭したりして楽しむ自由が減り、自分なりの意味や目的を見出す主体性も希薄になっているのではないか。

それが結果的に、生きづらさに繋がっているのではないでしょうか。

もっとムダなことやろうぜ笑

目次

「意味」は行動や感覚を拘束しうる

僕が最近、感銘を受けたのが建築家”青木淳”という人の「原っぱと遊園地」という本です。

青木淳という建築家はとても著名な方で、代表的な建築は「ルイ・ヴィトン 表参道店」や「青森県立美術館」などがあります。

青木淳の書籍「原っぱと遊園地」に以下のような言葉がありました。

空間が先回りして、行動や感覚を拘束する

本書の中では建築物を「遊園地」と「原っぱ」の2種類があると述べられています。
遊園地は「何をするかがすでに決められている建築物」、原っぱは「何をするかは自由で、何をするかによって空間がつくられる建築」ということです。

例えば、カラオケやボーリング場に行けばやることは1つしかありません。つまり我々の取るべき行動は束縛されていると言えるでしょう。

しかし、空き地に行けば何でもできますよね。
鬼ごっこもできるし、BBQもできる、筋トレ、走る、自由にできるということです。

そして、みんなで鬼ごっこをすれば、その空き地は鬼ごっこをする空間になるし、BBQをすればBBQの空間になるということです。


本書では主に建築メインで語られていますが、この内容は全てに言えると思うのです。

最近のサービスの発展は、ほんとうに目覚ましく便利です。

しかし、それらのほとんどは「何のために存在するのか?」という意味、目的が明確なものばかり。

つまり、行為があらかじめ定められた、いわば「遊園地」的なものが多いのです。

もちろん、ある程度の用途や目的がなければ、「そもそもそのサービスは何のためのものか」分かりづらいため、多少は仕方ないと思います。

しかし、それら意味や目的が追及されすぎた結果、我々の行動や感情は、その製品が開発される初期段階に想定された枠を出ることができない。

これが精神的な束縛となり、生きづらいという感情を生み出しているのではないかと考えられるのです。

抽象度の高いことを自分の具体に落とし込む

「じゃあ、こうすれば解決です」と述べると、今度は僕があなたを拘束してしまいかねないので、

こうすべきみたいな話は言いません。


ただ1つだけ僕が感じることを述べるなら(言うんかいw)「抽象度高いことを、自分の具体に落とし込む」ことは非常に有効ではないかと考えます。


例えば、僕のケースは数学。

僕は科学技術に応用できる数学というよりは、「無限とは何か」「数字とは何か」という、いわば哲学に近い数学を学んでいます。

ですので、「学んで何の意味があるんだ」と思われやすいです。苦笑

事実、2023年に僕が開催した微分積分セミナーで「これって日常でどう役に立つのですか?」という質問をされましたからね。

「んー、なんだろうね?」と僕も思いました。笑

ですが、結果的に抽象度高い数学からも、実生活に役立つような意味を自分なりに見つけることができています。

とある数学の定理を証明したところで、ダイレクトに生活が変わるわけではありません。

ですが、この定理を理解しようと向かう姿勢や思考プロセス、見落としがないかの確認、アイデアの発想法などはきっと役立つはずなんですよね。

その姿勢が最終的に、自分の行動指針や哲学にもつながります。

そういう経緯で、僕の場合は、数学を通して自分なりの意味を見出せているような気がします。


ちなみに僕は2023年の最初は聖書読んでました。笑

神やイエスといった抽象度高い話が多いですが、ただ徳を積む生き方がしたいなぁと感じた次第です。

そのあとは西洋哲学、日本書紀などを読んで数学に至ります。


少し話がそれましたが、何をするかは別になんでもいいと思います。

例えば、古文を学ぶ、百人一首をやってみる、ラテン語を学んでみる、中国の歴史を調べてみる、ガーデニングをやってみる、数独をやる、などなど。

一見、「これ何の役に立つんだろう?」と意味が分かりづらいことでも、そのプロセスの中に新しい発見が必ずあります。

そのプロセスに自分なりの意味を見出すことができれば、きっと新しい精神的な自由が生まれるのではないでしょうか。


もっというと、抽象度が高いことを具体的に落とし込んでいくと、やがては「すべては1つ」という意識になります。

そうすると、何をやっていても楽しめるようになります。

その結果、世の中のありとあらゆるものに対して、楽しい、楽しくないという見方でなく、楽しむという主体性が生まれるのではないか。

それが生きづらさの解決の1つだと確信しています。

意味なんてなくてもいい。純粋でいい。もっと自由でいい。そう思います。

意味を求め過ぎない。これからの課題ではないでしょうか。

この記事を書いた人

目次