ネタバレなし!容疑者Xの献身で印象に残ったこと【数学徒然草】

容疑者Xの献身

どうも、マルタです。
今回は僕の大好きな「容疑者Xの献身」をご紹介します。

著者が東野圭吾なので、知っている人多いのかな〜。

僕は数学が好きなので、「天才物理学者(=湯川)VS天才数学者(=石神)」の設定に惹かれて読み始めました

「容疑者Xの献身」について一言で言えば、「究極の愛」でしょうか。

うーん、純愛と言うか、無償の愛と言うか、なんなら「愛」という言葉にすることでかえって内容が陳腐になってしまうぐらい、悟りみたいな話だな〜と感じます。

とはいえ、内容はサスペンス。なかなかの残酷性も含むもので。

物語の人物「石神」に対して、「好きな人のために、そんなことまでやる!?」と感じましたが、物理学者の湯川も、「石神にとって、数学の問題を解くよりも、◯人の方が容易いだろう」と言ってましたし。

しかも、石神は数学の天才で相当キレる。アリバイも完璧。

容疑者Xの献身のアリバイトリックは、これまた非常に巧妙なので、もし興味があればぜひ手に取ってみてください。

※個人的には、小説→映画の流れがオススメです。

今回はネタバレなしで「容疑者Xの献身」の小説・映画で印象に残ったシーンから感じたことを綴っていきたいと思います。

目次

幾何の問題のように見えて、実は関数の問題

きました!
科学の厨二病心をくすぐる言葉。

人生において、果たして使うタイミングは来るのだろうか…。

とそれはさておき、「幾何の問題のように見えて、実は関数の問題」というのは、物語においては主に比喩表現として使われており∫、つまりは「思い込みの盲点」を意味しています。

例えば、とある現象を「これはAだ!」と強く思うと、Bという選択肢が見えなくなる。

でも実はこのBこそが現象の原因なのである。

みたいな感じです。

この言葉は本当にそうだなと感じておりまして、
僕は最近、腰を痛めてしまったのですが、原因は「運動不足に見せて、実は意識の問題だ」という結論に至りました

1つの角度だけでなく、多様な角度で物事を観察し、思い込みをなくす。

ほんと大事。

今の僕の人生は充実してる!この景色を見て、美しいと感じることができる!

これは映画オリジナルのストーリですが、数学の天才、石神は才能がありながらにして、不遇な日々を過ごしており、どこか冴えないキャラです。

しかし、そんな石神が劇中、一番喜びの感情をあらわにするシーンが登山の場面。

山の頂上を登り切った、石神が絶景を見ながら叫びます。
「美しい!今の僕の人生は充実してる!この景色を見て、美しいと感じることができる!」

映画を見ていると、山の美しいシーンに目をとられがちですが、この石神が叫んだセリフは僕はめちゃくちゃ深い!

なぜなら、幸せの真髄が表現されていると感じるからです。

石神のセリフ、「今の僕の人生は充実してる!この景色を見て、美しいと感じることができる!」を少し分析してみると、

美しい景色があるから幸せというわけではなく、この景色を美しいと思える感性があることに幸せを見出している、と思うのです。

もっと言うと、幸せは外部から与えられているのではなく、内部から溢れているということ。

これはもちろん幸せだけじゃなく、充実や心地よさなど、ありとあらゆる概念においても言えると思うのです。

道端に咲いている花を見て、美しいと感じることができる。
散歩をしていて、空気が気持ちいいと感じることができる。

逆に、ピンチが訪れても、失敗しても、これを学びの機会として感じることができる。

こう考えれば、たとえ外部からの刺激が少ないとしても、自分の感性次第では幸せや充実はいつでもどこでも感じることができる、という気づきを与えてくれるセリフだと思うのです。

人は時に、健気に生きているだけで誰かを救っていることがある

人のために何かしなくては、何か有益な価値を提供しなくては、
そんな目に見える結果が求められがちな現代社会において刺さるメッセージだと思います。

作中では、石神は隣に引っ越してきた住人を助けることにします。

隣の住人は石神に感謝しながらも、なぜ石神がここまで助けてくれるのか理解できません。

しかし、石神は人生に絶望していた時に、その人が石神の前に現れました。

その隣人が石神に特別な何かをしたわけではありません。
ですが、その人が存在することその事実によって、石神が救われていたわけですね。
(これが愛の始まりなのですが。)

ちょっとネタバレがなるべくないように、抽象的になりましたが
特別な何かをしなくても、ただ生きているだけで誰かを救っていることがある。

心に残る言葉でした。

【考察】純愛と野生は裏表か?

最後に考察として、「容疑者Xの献身」で考察したいテーマがあったので綴ってみます。

それは、「純愛と野生は紙一重かどうか?」ということ。

本作品は、石神はとある人に恋をし、その人のために全てを捧げました。
しかも、その愛の見返りは求めない、というまさに「純愛」、あるいは「無償の愛」とはこのことか、と思ったものです。

しかし、一方で石神がその愛する人を完璧に守るために、石上にとって何も関係のない人物を犠牲にしました。

つまり見方を変えると、「我が愛する人を守るためなら、他人はどうなってもいい」という、ある意味、野生的な思考でもあるなと思ったのです。

まるで、ライオンが我が子のために敵を容赦なく狩るような行為でしょうか。
狩られた敵にも守るべき子どもがいる、でもそれはお構いなし。

純愛というのは、時に弱肉強食のような一面もあるのかな〜と思ったりした次第です。

誰かの犠牲の上に成り立つ、そんな愛があるのだろうか。

と考えているとふいに、「美しい!今の僕の人生は充実してる!この景色を見て、美しいと感じることができる!」の石上のセリフを思い出しました。

なるほど、つまり石神のセリフから派生して考えてみるなら、「本人が犠牲を犠牲だと感じるから犠牲であって、犠牲を別の角度から見ればまた別の感情になるのかもしれない」のかな〜と。

まぁ犠牲を何と解釈するのかは、わからないけど、さすがに命を奪うのは、相手への命への敬意に欠けた行為なので、NGだけど。

そうじゃなければ、見返りを求めなければ、純愛と野生は切り離せるんじゃないかなと思いました。

そう考えると、今回の数学者の石神は天才であり、純粋であり、野生的でもあった、のかもしれない。

ということで、最後は脱線しましたが今回は「容疑者Xの献身」の感想でした〜。

この記事を書いた人

目次