どうも、丸田です。
今回は数学界でも1位2位を争うほど有名な数学の巨匠、オイラーをご紹介します。
オイラーと言えば、有名な公式「オイラーの公式」があります。
この公式の説明は割愛しますが、超ザックリ言ってしまえば、
グチャグチャな数字をグチャグチャに操作したら、なぜかキレイな数字が出てきたみたいな、
かなり深みある公式です。(専門家に怒られそうです…。)
そんな世界を魅了した公式の生みの親オイラー。
どんな人生を送り、どんな影響を残したのか?今回はその秘密に迫りたいと思います。
オイラーの生い立ち
オイラーの70年後に生まれるガウスとともに、「数学界の2大巨人」と呼ばれるほど、歴史的にも有名な数学者です。
神学に勤しむ幼少時代
牧師の子供としてスイスのバーゼルで、6人兄弟の一番上の子として生まれました。
オイラーの父パウルは牧師であり、父は牧師の道を継いで欲しいと願っておりました。
ですので、オイラーは牧師としての道を強く勧められ、神学やヘブライ語を学んでおりました。
ヤコブベルヌーイに才能を見抜かれ数学者へ
オイラーはバーゼル大学へ進学し、神学を学びながら他にも数学、物理学、天文学なども学んでおりました。
やはり当時から天才で、数学に関してとてつもない才能を発揮していました。
というのも、彼には写真のように完璧に思い出せる記憶力、そして桁違いの想像力があったからです。
その才能を見抜いたのが、ジョン・ベルヌーイでした。
オイラーはジョン・ベルヌーイから週一で個人授業を始め、どんどん天賦の才に磨きがかかります。
1724年にバーゼル大学を卒業したオイラーは父から、牧師を継ぐ準備をするように迫られますが、ストップをかけたのがジョンベルヌーイの息子出会ったニコラウスとダニエルでした。
彼らは「オイラーは聖職者よりも数学者になる方がずっと成功するだろう」と断言。
そして、オイラーは数学者としての道を進み始めるのでした。
ちなみに、オイラーとベルヌーイ家との関係性が生涯続くことになります。
オイラーの父は、ヤコブベルヌーイに数学を学んでいたこともあり、父はオイラーに数学なども教えていました。
なので、オイラーの家系とベルヌーイ家は関係性が元から深かった可能性があります。
波乱万丈の中、掴んだキャリア
その後オイラーの数学力はどんどん認知を得ていくことになります。
1727年、フランス科学アカデミーが数学的なアイデアを募集し、受賞した人に賞を与えるというイベントを開催したのですが、オイラーは第二位に入賞。数学理論は最も優れていると称されました。
のちに、オイラーはこの権威ある賞を12回も受賞します。
取りすぎやw
しかし、この活躍も虚しく就職活動に難航します。
オイラーはバーゼル大学の教授職に応募したが、採用されませんでした。
どうやらこの時代は、数学者にとって就職難だったそうです。
オイラーの友人はロシアの王立アカデミーの研究員としてエカテリーナ一世に使えていました。
その友人にオイラーは何度も手紙を書き続け、雇って欲しいという旨の手紙を送り続けていたそうです。
それほどまでに就職に困っていたオイラーに救いの手が。
ベルヌーイ兄弟からロシアのサンクトペテルブルクアカデミーで医学の分野で空きがあるという知らせを受け、急いで向かいました。
「やった!ついに仕事ができる!」と期待したオイラーでした。
が、しかし。彼を待ち受けていたのは悲惨な現実でした。
なんとエカテリーナ一世が亡くなり、政治状況が混乱を極めていたのですね。
その影響を王立アカデミーも強く受けていました。
アカデミーもないゴタゴタしたカオスな状況だったのですが、偶然にも数学のポストがぽっかり空いていました。
そのポストにオイラーは着任することができたのです。
こうして、波乱万丈なカオスの中、偶然か必然か。オイラーは数学者としての地位を手に入れたのです。
数学の女神はオイラーに微笑んだのかもしれません
訪れる悲劇…か?
1733年。オイラーが26歳の時に、数学部門の長となりました。
キャリアが軌道に乗ってきたオイラーは出会ったスイス人と出会い、翌年に結婚。
キャリアに油が乗ってきた段階でしたが、実はオイラーにとってはあまり好ましい環境ではありませんでした。
なんだかんだロシアの政治状況は混乱しており、友人だったベルヌーイもそんな状況に嫌気が差してスイスへ帰国してしまったからです。
そこでオイラーを悲劇が襲います。
1735年、結婚してちょうど1年過ぎた頃に、なんとオイラーは右目の視力をほぼ失ってしまったのです。
原因は何週間も研究に没頭しすぎだと考えられています。
「なんと!目が見えなくなったOMG!俺の人生はこれからって時にぃー!」と普通は思いますが、オイラーには目が悪くなること自体、何も気にしていませんでした。
もちろん数学研究のペースが落ちることもなかったそうです。
超人かよ
ドイツでセカンドキャリア
1741年、当時有力だったフリードリヒ大王のベルリン王立アカデミーへの誘いを受けることにした。
そして、ドイツで過ごした25年のあいだにん膨大な研究を手がけ、400篇近い論文を書きました。
しかし、当時はあまり居心地は良くなく、フリードリヒ大王からいじられていたそうです。
また、皇帝がオイラーに郊外のサンスー氏に立つ夏の宮殿のために水上輸送システムの設計を手伝わせようとしたが、純粋数学者であって工学者でないオイラーは失敗したそうです。
ますます居心地の悪くなった環境。
そんな中、意外な人からの助けがオイラーを助けてくれるのです。
ロシアへ戻り、困難を乗り越え、大量の論文を書き残した
エカテリーナ2世がなんとオイラーを全面的に支援することにしたのでした。
エカテリーナ2世は世界でも優秀な数学者をロシアに招きたいという願望もあり、オイラーを援助したのでした。
その結果、オイラーはサンクトペテルブルクへ戻り今まで以上に安定した生活を送っていたのでした。
なんと屋敷に住むようになり、オイラー家は使用人も含め18人いたとされており、さらにオイラー家専属の料理人までいたそうです。
一気に貴族へ!
この時期にオイラーは集中的に論文を書き上げるようになりました。
しかし、その途中にさらなる悲劇がオイラーを襲います。
なんと左目も見えなくなってしまいました。
つまり全盲。
OMG!これじゃあ、論文も数学もできねぇじゃねぇかよ!、と普通ならなるんですけどね。
オイラーは全く気にすることもなく、むしろ「これで集中できる」とより数学への研究が研ぎ澄まされていきます。
その時は、オイラーが口で語り、子供たちがそれを筆記して論文に仕上げていたらしいです。
その結果、世界で一番多くの論文を書き上げました。
その後240年たった現在でも、オイラー全集が完結できないほど、生前の彼の執筆活動は旺盛だったそうです。
ちなみに、50年間で886編、5万ページにのぼり、平均1年間で800ページ以上の論文を書いたとされています。
この論文の書くスピードが早過ぎて、印刷業者も間に合わずかなり苦労していたそうです。
オイラーが計算をやめた日
オイラーは晩年までずーっと計算していました。
そして、その時はとうとう訪れました。
1783年9月18日。オイラーはハーシェルが発見した天王星の軌道計算をしたのちに、紅茶を飲んでいたのですが、その時に発作に襲われ「私は死ぬ」と言い残し、息を引き取りました。
こうして数学史でも巨大な数学者オイラーの生涯は幕を閉じるのでした。
最後の最後まで数学の発展に貢献したオイラー。
その功績が讃えられてなのか、スイスの旧フラン貨幣を飾る顔にオイラーが採用されました。
オイラーの業績について
数学という巨大な真理に大きな爪痕を残したオイラー。
彼が残した業績は多岐にわたりますが、今回はその中の一部をご紹介します。
数学記号の整理に尽力
この時代から少しずつ数学記号が整理されてきました。
ライプニッツは微分積分の記号を構築したり、関数をf(x)と表記するようになっていったのですが、オイラーも数学記号の整理に勤めました。
オイラーが定めた数学記号は、円周率π、ネイピア数e、虚数iです。
さらにはsinやcosなどの三角関数の記号なども定めたそうです。
こうして数学の扱いやすさが飛躍的にアップしたのですね。
オイラーの公式の発明
オイラーの業績で一番有名なのは、オイラーの公式です。
何がすごいかって、この公式を見つけたこともそうですが、それぞれ使われている、円周率π、ネイピア数e、虚数iの記号もオイラーが定めたものだということです。
現在の数学の分野は大きく「解析学」「幾何学」「代数学」があるんですね。
解析学は「ネイピア数e」、幾何学は「円周率π」、代数学は「虚数i」それぞれ有名な単位が融合しているのがオイラーの公式のすごいところなのですね。
ネイピア数の「ネイピア」は対数の生みの親、ジョン・ネイピアの名前が由来だそうです。
ネイピアに関する記事はこちらもご参考ください↓
ケーニヒスベルクの橋
ドイツの都市ケーニヒスベルクには7つの橋があるのですが、この橋を1回だけ通って、7つすべての橋を渡り切れるのか?をオイラーは考えました。
まぁ珍しいこと考えるな笑…と思いきや、この問題がとても数学理論の深い問題だったのです。
この問題は「ケーニヒスベルクの橋」と呼ばれる有名な問題なのですが、抽象化され、一筆書きの定理となりました。
さらにこの理論は発展し、グラフ理論、位相幾何学などにも発展したのでした。
オイラーの生涯と業績 まとめ
今回は、オイラーについて解説しました。
オイラーは政治に翻弄され、劣悪な環境に揉まれ、視力を失いながらも計算することをやめなかった男。
唯一彼の計算を止めたのは、死だったというのはまさに数学ジャンキーなのではないでしょうか。
とはいえ、彼の研究は偉大でオイラーの公式という世界の深淵が垣間見えるような摩訶不思議な公式を世に放ったというのは、とてつもない偉業だと感じます。
間違いなく近代数学史を彩る天才だったのではないでしょうか。
今回のオイラーについては以上です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。